還暦を大きく過ぎて 今月65歳(私の履歴書) 6月22日
1954年6月30日に直入郡久住町に農家の長男として誕生しました。
久住山の麓に生まれて、中学校2年生まで久住小学校、久住中学校と急な坂道を毎日通いました。どちらかという熊本県に近く、言葉も肥後の言葉でした。
小学校6年生を卒業した時の春に、西宮の叔母を訪ねて、大阪見物、春の選抜高校野球で甲子園に行きました、昭和42年の津久見高校が優勝した年でした。帰りの関西汽船で津久見高校のナインと同じ船で、サインをもらいに行ったことが毎日新聞の記事になり、朝刊に載ったことも思い出になりました。
中学校3年生の時に家庭の事情で大分市立滝尾中学校に転校しました。
中学生時代は受験勉強をほとんどすることなく、進学も考えていませんでした。進路指導の先生からも高専という学校が出来たから受けてみないかという推薦があり、たいして試験勉強もせず、案の定不合格でした。
1年間の浪人後、高専と大分舞鶴高校に合格。大学受験がないという単純な理由で高専に入学。しかし、生まれつき勉強することが好きでなかったことが災いして、3年生の時に留年しました。(結局22歳で卒業)
毎日夜は都町のラーメン屋にアルバイトで、夕方から0時まで、遅い時には01時ごろまで働いておりました。目が覚めたらもう12時近くで、学校に行くことが億劫になり出席日数も足りずに、あえなく留年。
その後、自分なりに頑張って奇跡の卒業を果たしました。卒業後10年くらいは、留年の悪夢をかなりの頻度で見たことを今でも思い出します。卒業に際して、何かにつけ助けてもらった2歳下の同級生には感謝しています。
昭和52年は第2次オイルショックで就職難と言われていた時期でした。
そんな中で、叔父が面白い会社があるので受けてみないかと勧めてくれたのが日本警備保障(現セコム)でした。
『水と安全はタダ』の国日本でしたが、高度成長期の波に会社がうまく乗り『安全産業』を世の中に定着させていき、現在も成長しております。
昭和61年に現在の家内と一緒になり、2女をもうけました。
平成27年に61歳を期に、合同会社ペーパームーンを設立。
『過去の負債を未来の糧に』をテーマに環境関連事業を通じて、社会貢献を旨として現在に至っています。(http://www.papermoonjapan.com)
同窓会とのかかわりは、50歳ごろに明愛会の理事である大平さんからの誘いでした。最初は緊張気味で参加しましたが、1期生2期生の先輩方の優しさと、後輩を思いやる姿に感激して、その後、催事にはほとんど参加しています。
会社人生にはない別世界の同窓会ですが、同郷ということもあって和気藹々に何でも話せことが一番かなと思います。
会社人生では体験できることのない同窓会の素晴らしさがあると思います。
若い会員のかたは、当面は会社が一番で優先していくことは当然ですが、違う世界も経験してみるのも決してマイナスにはなりません。
ぜひとも関東支部の各催事に参加して、みんなで楽しんでもらえたら幸甚です。
還暦に寄せてはリレー方式ですが、還暦を過ぎた方は寄稿をお願いします。
また、古希を見事に過ぎた方も投稿をお願いします。
52M 後藤 勲 関東支部長 (写真はわが故郷久住山と大船山)